神岡町は、鉱山と共に発展してきた町です。
1874年(明治7年)、三井組が近代的な鉱山経営を始めたころから、めざましい発展を遂げ、今に面影を残す、華やかな昭和の時代をつくりました。
当時の夜景写真からは、はるか山の上にまで灯りがみられます。小さな街には、ひしめき合うように民家や商店が並び、昭和初期には遊郭街もつくられました。待合茶屋跡や料亭跡から花街のなごりがうかがえます。
また、町を歩くといたるところで「水」の音が聞こえてきます。神岡町には水屋が十数カ所に点在し、昔から生活用水として使われ、語らいの場として人々が集ってきました。現在も生活の潤いの場として菜洗いなどにつかわれています。
平成の大合併により、平成16年2月1日に吉城郡古川町、河合村、宮川村と合併し、飛騨市となり新たなまちづくりの歴史が始まっています。
神岡鉱山の起源は、奈良時代養老年間(720年ごろ)に黄金を産出し、天皇に献じてしたという言い伝えがあります。
その後、天正末期(16世紀末)から文禄慶長にかけての約10年間、越前の人、糸屋彦次郎宗貞(金森長近に仕え、茂住宗貞と称す)が金山奉行として茂住坑、和佐保坑の開拓に努めました。
江戸時代から明治初年までは、幕府直轄の鉱山になり、民間の山師によって採掘が続けられていましたが、明治7年に三井組が経営に着手しました。
その後、近代化により最新鋭の大型機械による大規模採掘を続けて、以後108年にわたり三井系の経営となっていましたが、昭和61年に神岡鉱業(株)として分離独立しました。
三井組経営からの総採掘量は、約130年間で7,500万トンに達し、亜鉛、鉛、銀鉱山として一時は「東洋一の鉱山」として栄えました。
しかし、円高不況や様々な国内外の要因から、2001年6月に鉱石の採掘を中止し、その後はリサイクル事業(廃バッテリーや電子部品、携帯電話などを溶かして、その中に含まれる鉛や金、銀、レアメタルを回収するなど)などに事業転換し現在に至っています。
鹿間から富山県境までの山の中には、東京~博多間(約1,300km)に、匹敵する坑道が、蟻の巣のようにあると言われています。
近年では、ニュートリノ観測装置「スーパーカミオカンデ」が鉱内に建設され、2002年には小柴昌俊東京大学名誉教授がニュートリノの観測成果によりノーベル物理学賞を受賞しました。神岡鉱山は宇宙物理学最先端の地としても脚光を浴びています。